明日の教室(野中先生の回)

【No.999】

 

今日は明日の教室の野中先生の回を観て学んでいた。

 

自分の縦糸・横糸の意識との共通点や相違点を焦点化して考えた。

 

まず、自分の中のイメージは野中先生の織物論よりも土作先生の「錐」のイメージと似ている。

 

3次元的に捉えていて、生徒同士はxy平面上にいて、自分はz軸上にいる。

 

生徒同士は「全員同一平面」という条件もしっかりくる。

 

生徒の中に優劣をつくらず、お互いの長短を補完しあって学級づくりをするのだという意図が伝わる。

 

野中先生の織物のイメージは耳障りはよいが、第2部でも話題になっていたが、実際に教員の立ち位置がわかりにくい。(現在の自分の理解力では納得し切れなかった。)

 

土作先生の考え方でも自分とは相違点は2点ある。

 

1点目は、教員の立ち位置は一点で固定されず、状況に応じて手だてが必要な生徒との距離が近くなったり遠くなったりする動点であることである。

 

「錐」の形は1年間で大きく変わる。

 

それは生徒同士の距離感も変わるということである。

 

時に近づいたり、離れたりする。

 

それを「カチッ」と固定してしまうと自分自身が「枠から外れた生徒」という認識になってしまいそうだと感じている。

 

だから、錐の形は柔軟性をもたせる。

 

ただし、それぞれの辺は切らさない。

 

細くてもよいからつながっている。

 

切れそうなら教員がうまくつなぐ。

 

そんなイメージでいる。

 

そして、2点目は教員の位置である。

 

土作先生は図で教員の位置を上(とんがり帽子の向き)に描いた。

 

上から俯瞰しているイメージなのだろう。

 

上に描くと「引っ張っていく」という印象を受ける。

 

自分なら教員の位置は上(とんがり帽子の向き)と下(アイスクリームのコーンの向き)の2つを描くだろうなと考えた。

 

生徒が主役ならば生徒が先陣を切ってやりたいことをやっていくようになればよいと思っている。

 

もちろん、自分で上限を決めず自分(たち)を高めるようになるまでには必要な支援はある。

 

だから、最初(できれば1学期まで)は教員が上にいて、途中から下に移る。

 

生徒の視界から教員が消えているにもかかわらず、生徒が自分たちで高め合っていけるようになることが理想である。

 

そういった1年間のイメージもある。

 

どこで自分がフェードアウトしていけるかが自分の教師力だと思っている。

 

年度末になっても生徒に同じ刺激を与えて、「指導してるつもり」で満足する教員にはなりたくない。

 

そして、そういう教員は結局生徒のせいにしておしまいである。

 

自分の指導力のなさが原因だと気づけないのだろう。

 

最後にごちゃごちゃと蛇足をしたが、何より自分の教師観を見つめ直すことができた。

 

世の中には価値のあるものが転がっている。

 

掴むのは自分次第である。